変化への依存

 

先日は成人の日だった。

去年、僕にとって成人式は、参加するか迷う程度の行事だった。

だが今でも割りと印象に残っている。

 

僕は地元から1時間かけて高校に通っていたため、地元の友人たちとは疎遠になった。

成人式で会った友人たちのほとんどが中学卒業以来の再会だ。

噂では聞いていたが、友人たちの中には結婚して子供がいる人や妊娠している人もいた。

こういう状況を目の当たりにしてしまうと、つい考えこんでしまうのが僕の癖だ。

 

若くして結婚や出産を経験している人を見ると暗い気持ちになってしまうことがある。(もちろん数多くの例外もある)

理由は簡単。

その人の子供がかわいそうに思えてしまうからだ。

大きなお世話だということは重々承知している。

 

若くして結婚や出産を経験している人は少子高齢化社会には肯定される存在だろう。

とはいえ今の若い世代は低賃金で多くの高齢者を支えなければならない。

あらゆる単純作業はオートメーション化され、貧富の格差は広がるだろう。

僕は別に貧しくてもいいとは思う。

しかし親が貧しいからといって、子供がその被害を被るのはおかしい。

 

子供一人を大学卒業まで育てるのに2000万はかかると言われている。

ちなみに2014年において20代の平均年収は347万だ。

このデータだけでも子供を育てるには非常にコストがかかるのは明らかである。

 

親の年収と子供の学歴に強い相関関係がある。

必ずしも子供に高等教育を受けさせればいいわけではないが、親の収入によって子供の未来の可能性を狭めてしまうのは悲しい。


ここでは親の経済力を例に挙げてみた。

僕の本音をいうと、親になっている人物の悪い部分を知ってしまっているから、悲しくなってしまう。

とはいえ、これは反復可能な知識ではないので、経済力を例に挙げざるを得なかった。(苦しい言い訳ではあるが…)

そもそも教養や経済力がなくとも、人に優しくはなれる。

 

 

ここからが本題。

では何故、ろくに準備もできていないのに子供を産んでしまうのか。

僕はこの問に対して一つの仮説を提示してみたいと思う。

 

同世代で結婚や出産を経験している人で大学に通っている人はほとんどいないだろう。

少なくとも僕の周囲や聞いた話においては、高卒または高校中退だ。

 

ここで結婚や出産にいたるまでの流れを見てみよう。

日本では小学校6年間と中学校3年間が義務教育にあたる。

その後高校で3年間を過ごす。

そして就職し、2〜3年で結婚または出産にいたっている。

 

実にリズミカルだ。

小学生のときは次に中学生が待っている。

中学生のときは次に高校生が待っている。

高校生のときは次に社会人が待っている。

 

今の社会において、高卒では起業でもしないかぎり、単純作業や力仕事に従事する可能性が高い。

もう少し抽象的に言うと、変化の少ない職業につく可能性が高い。

その場合、今まで常にあった明確な未来の変化が急に見えなくなる。

それは職に就いていなかったとしても同様だ。

 

では社会人の次は?

おそらく家庭を持つことだろう。

 

ここでこの記事の題名となっている『変化への依存』の話がでてくる。

今まで自分の身には勝手に変化が訪れていた。

しかしモラトリアムを抜け、待っていても変化が訪れないことに気づく。

そこで家庭を持つ、つまり結婚や出産という変化を求めるようになる。

 

そして家庭を持ち、子供ができれば、子供に自分の人生への変化を投影することができるようになるのだろう。

 

 

最後にまとめる。

僕の仮説は、若くして結婚や出産に向かわせる動機は『変化への依存』ではないか、ということだ。

今は親が夢みて子供が現実をみる時代。

『変化への依存』は親が子供に期待し過ぎるようになったことにも関係しているのではないか、僕はそう思う。

 

 

森博嗣氏の小説『有限と微小のパン』にはこんな言葉がある。

子供で夢を見る親は、もう『親』という生き物だ。それは人間の生を放棄している。

実に重い言葉だ。

 

 

こんな実証不可能な仮説を立てる動機は、他人の気持ちを理解しようとする、僕の中に少なからず残された社会性からきている。

 

今後も諦めず自分の考えをアウトプットしていこうと思う。