アートの価値 ー何故アートに魅せられたのかー

2014/11/29〜2015/3/1の間、日本科学未来館で『チームラボ』という会社がアート展を開催している。(http://odoru.team-lab.net/)

展示されている作品はどれも素晴らしいが、僕は『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点』という作品が特に好きだ。

興味がある方には是非見て頂きたい。

 


追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点 - YouTube

 

今年の春休みに佐賀で開催された、チームラボのアート展で、この作品に出会った。

衝撃的だった。

言葉では形容出来ない感動、感覚。

実際に足を運び、目の当たりにしたとき、全ての思考をこの作品に向けざるを得ない。

 

僕は元々、アートとは無縁だった。

美術館の厳かな雰囲気が耐えられないし、絵画や彫刻を観てもわけがわからない。

 

そんなときに、チームラボの社長である猪子寿之氏が出演していた『アナザースカイ』を観た。

 何かを期待して観ていたわけではないが、観終わった後には猛烈に感動していた。

何故あのときに、あれだけの感動を味わっていたのかは、よくわからない。

 

それからと言うもの、アートというものに興味を持ち、自ら足を運び、観に行くようになった。

その度に不思議な感動を味わっているのは、紛れも無い事実だ。

 

 

では、何故ここまでアートに魅せられたのか。

ここからが本題である。

まずアートの価値から考えてみよう。

ここでいう『価値』とは何らかの目的実現に役立つ性質や程度のことを指す。(しかし今の僕では『アート』を正確に定義することはできない。)

 

僕はアートに触れ、今まで経験した事のない感動を味わうことが出来た。

しかしその感動を言語化出来ていない時点で、非常に抽象的な感動といわざるを得ない。

そんな抽象的な感動を、目的として掲げられるものだとは、決していえないだろう。

したがって言葉の意味通りに考えると、アートには価値がない、という結論に至る。

 

仮にアートには価値があると結論付けられていたとすれば、その価値の向かう目的実現に対して、僕が何らかの魅力を感じていたからだろうと、仮説を立てることができる。

とはいえアートには価値がないという結論が出てしまった以上、別のアプローチをしなければならない。

 

では次に、何故ここにきて急にアートに興味を持ったのだろうか、考えてみたいと思う。

先程述べた通り、キッカケは『アナザースカイ』で間違いない。

かと言ってキッカケになりうる経験があの時が初めてであるはずはない。

 

僕はつい一年位前までは非常に合理主義的な考え方だった。

今となってはその考え方が原因で何度も苦しめられていたことを思い出す。

しかしあらゆる問題に触れ、理性では説明出来ないことがあまりにも多すぎることに気づいたのがつい最近のことだ。

この僕の内面で起こったコペルニクス的転回が、アートのようなものに対しての受け皿が出来上がった原因ではないかと思う。

おそらくそのタイミングで『アナザースカイ』を観ることになったのだろう。

 

ここで重要なのは僕の価値観の中で理性が絶対的な存在ではなくなったことだ。

というより理性の限界を感じたと言った方がいいだろう。

 

僕の興味は初めて理由を必要としなくなった。

ただ単純に鳥肌が立ったり、感動して涙が出そうになるような感覚を大事にしようと考えるようになった。

 

その感覚が味わえるのがアートだ。

この感覚は言語化が不可能であり、そこに魅力を感じる事ができる。

アート特有の魅力ではなく言語化できない感覚に対して、僕は魅せられたのだ。

 

この記事のテーマであった「何故アートに魅せられたのか」というのは「何故言語化できない感覚に魅せられたのか」に言い換えることができる。

しかし結論はまだ出せない。

ここまで考えてきたが、僕は結論を出すことがそこまで重要だとは考えていない。

重要なことはほとんどが過程の中にある。

つまり考えることこそが重要なのだ。

そもそも人間は死ぬまでの全てが過程でしかないのだから当たり前のことだ。

 

また結論に少しでも近づけたら同じテーマで記事を書いてみようと思う。