「そんな経験のためにここにいたのか」

 

この記事は書評ではないことをあらかじめお断りしておく。

この本は森博嗣氏の自伝的小説である。

主人公が語り手となり、物語が進行していく。

この記事の題名である「そんな経験のためにここにいたのか」というのはこの本に登場する喜嶋先生の言葉だ。

僕は物凄く重い言葉のように感じた。

 

以下はこの本の一部の引用である。

良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。
経験を積み重ねることによって、人間はだんだん立派になっていく。でも、死んでしまったら、それで終わり。フリダシにさえ戻れない。
だから、こういったことを真剣に考えると、涙が出るほど悲しくなる。なるべく考えない方がきっと良い。たぶん、これは感情というものだと思うけれど、できるだけ自分をコントロールして、こういった気持ちを野放しにしない方が生きていくために必要だ、と思う。それに失敗した人たちが、今もどこかで泣いていて、酷いときは死んでいくし、運が良ければ去っていく。いずれにしても、この怖ろしさから逃げるしかなくなるのだ。

 

 

成功しても失敗しても勝っても負けても「良い経験になったね」の一言で済まされる。

そういった経験は誰しもが持っているのではないか。

とはいえそのことをネガティブに受け取っている方は少ないように思う。

何故ならネガティブに受け取っていたら、ここまで「良い経験になったね」の一言が蔓延してるわけがないからだ。

 

僕は「良い経験になったね」 という言葉を聞くと、今話している話題の終わりの合図だと解釈している。

僕にとってはその程度の言葉だ。

つまり先程の引用文にあるような問いを無意識的に排除していた。

しかし今回ばかりは『経験』とは何か、について考えてみようと思う。

 

ここで考えようとしている『経験』とは、感覚や知覚によって与えられる全てのことではない。

何故ならそういった哲学的な意味を含ませると、一般的に用いられる『経験』とは乖離してしまうからだ。


ここでの『経験』は将来的に影響を及ぼす事象がイメージできる『経験』と定義する。

(過去を振り返ったときに現れる、現状を説明する『経験』は自明な存在だとした。)

少しわかりにくいので、普段の会話で使用するときの意味だと解釈してもらって構わない。

 

僕は『経験』を意識して、行動することは好まない。

『経験』を意識するということは、その先にある事象を意識することと同義だ。

 

想像してみて欲しい。

自分が心の底から楽しんでいるとき、何かに没頭しているとき、そこに将来的な目的意識が存在しただろうか。

僕は存在していなかったように思う。

例えば、テレビゲームにのめり込んでしまったとき、 もっとキャラクターのレベルを上げたいだとか、強い武器が欲しいといった目的は存在したとしても、ゲームをすること自体を『経験』だとはカウント出来ないだろう。(ここではゲームの外部に影響する事象への意識がないため、カウント出来ないと結論づけた。)

 

ここで言いたかったのは、自分が何かに没頭するための必要条件として、『経験』を意識してはいけないのではないか、ということだ。

 

 

ここである言葉を引用したい。

先を見通して点を繋げることはできない。振り返って繋ぐことしかできない。だから将来何らかの形で点が繋がると信じなければならない。何かを信じなければならない。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、私の人生に大きな違いをもたらした。

 これはスタンフォード大学でのスティーブ・ジョブズ氏のスピーチの一部である。

 

 

この言葉から、僕なりの『経験』に対する解釈が少し固まったので、再定義したいと思う。

『経験』とは未来に向けられた概念ではなく、現在から過去を振り返ったときに初めて現れる概念であって、現状を説明するときに単純化された言葉である。

 

 

 

『経験』に関しては、まだまだ思考できそうだ。

頭の隅にでも置いておこう。

 

 

変化への依存

 

先日は成人の日だった。

去年、僕にとって成人式は、参加するか迷う程度の行事だった。

だが今でも割りと印象に残っている。

 

僕は地元から1時間かけて高校に通っていたため、地元の友人たちとは疎遠になった。

成人式で会った友人たちのほとんどが中学卒業以来の再会だ。

噂では聞いていたが、友人たちの中には結婚して子供がいる人や妊娠している人もいた。

こういう状況を目の当たりにしてしまうと、つい考えこんでしまうのが僕の癖だ。

 

若くして結婚や出産を経験している人を見ると暗い気持ちになってしまうことがある。(もちろん数多くの例外もある)

理由は簡単。

その人の子供がかわいそうに思えてしまうからだ。

大きなお世話だということは重々承知している。

 

若くして結婚や出産を経験している人は少子高齢化社会には肯定される存在だろう。

とはいえ今の若い世代は低賃金で多くの高齢者を支えなければならない。

あらゆる単純作業はオートメーション化され、貧富の格差は広がるだろう。

僕は別に貧しくてもいいとは思う。

しかし親が貧しいからといって、子供がその被害を被るのはおかしい。

 

子供一人を大学卒業まで育てるのに2000万はかかると言われている。

ちなみに2014年において20代の平均年収は347万だ。

このデータだけでも子供を育てるには非常にコストがかかるのは明らかである。

 

親の年収と子供の学歴に強い相関関係がある。

必ずしも子供に高等教育を受けさせればいいわけではないが、親の収入によって子供の未来の可能性を狭めてしまうのは悲しい。


ここでは親の経済力を例に挙げてみた。

僕の本音をいうと、親になっている人物の悪い部分を知ってしまっているから、悲しくなってしまう。

とはいえ、これは反復可能な知識ではないので、経済力を例に挙げざるを得なかった。(苦しい言い訳ではあるが…)

そもそも教養や経済力がなくとも、人に優しくはなれる。

 

 

ここからが本題。

では何故、ろくに準備もできていないのに子供を産んでしまうのか。

僕はこの問に対して一つの仮説を提示してみたいと思う。

 

同世代で結婚や出産を経験している人で大学に通っている人はほとんどいないだろう。

少なくとも僕の周囲や聞いた話においては、高卒または高校中退だ。

 

ここで結婚や出産にいたるまでの流れを見てみよう。

日本では小学校6年間と中学校3年間が義務教育にあたる。

その後高校で3年間を過ごす。

そして就職し、2〜3年で結婚または出産にいたっている。

 

実にリズミカルだ。

小学生のときは次に中学生が待っている。

中学生のときは次に高校生が待っている。

高校生のときは次に社会人が待っている。

 

今の社会において、高卒では起業でもしないかぎり、単純作業や力仕事に従事する可能性が高い。

もう少し抽象的に言うと、変化の少ない職業につく可能性が高い。

その場合、今まで常にあった明確な未来の変化が急に見えなくなる。

それは職に就いていなかったとしても同様だ。

 

では社会人の次は?

おそらく家庭を持つことだろう。

 

ここでこの記事の題名となっている『変化への依存』の話がでてくる。

今まで自分の身には勝手に変化が訪れていた。

しかしモラトリアムを抜け、待っていても変化が訪れないことに気づく。

そこで家庭を持つ、つまり結婚や出産という変化を求めるようになる。

 

そして家庭を持ち、子供ができれば、子供に自分の人生への変化を投影することができるようになるのだろう。

 

 

最後にまとめる。

僕の仮説は、若くして結婚や出産に向かわせる動機は『変化への依存』ではないか、ということだ。

今は親が夢みて子供が現実をみる時代。

『変化への依存』は親が子供に期待し過ぎるようになったことにも関係しているのではないか、僕はそう思う。

 

 

森博嗣氏の小説『有限と微小のパン』にはこんな言葉がある。

子供で夢を見る親は、もう『親』という生き物だ。それは人間の生を放棄している。

実に重い言葉だ。

 

 

こんな実証不可能な仮説を立てる動機は、他人の気持ちを理解しようとする、僕の中に少なからず残された社会性からきている。

 

今後も諦めず自分の考えをアウトプットしていこうと思う。

 

 

アートの価値 ー何故アートに魅せられたのかー

2014/11/29〜2015/3/1の間、日本科学未来館で『チームラボ』という会社がアート展を開催している。(http://odoru.team-lab.net/)

展示されている作品はどれも素晴らしいが、僕は『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点』という作品が特に好きだ。

興味がある方には是非見て頂きたい。

 


追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点 - YouTube

 

今年の春休みに佐賀で開催された、チームラボのアート展で、この作品に出会った。

衝撃的だった。

言葉では形容出来ない感動、感覚。

実際に足を運び、目の当たりにしたとき、全ての思考をこの作品に向けざるを得ない。

 

僕は元々、アートとは無縁だった。

美術館の厳かな雰囲気が耐えられないし、絵画や彫刻を観てもわけがわからない。

 

そんなときに、チームラボの社長である猪子寿之氏が出演していた『アナザースカイ』を観た。

 何かを期待して観ていたわけではないが、観終わった後には猛烈に感動していた。

何故あのときに、あれだけの感動を味わっていたのかは、よくわからない。

 

それからと言うもの、アートというものに興味を持ち、自ら足を運び、観に行くようになった。

その度に不思議な感動を味わっているのは、紛れも無い事実だ。

 

 

では、何故ここまでアートに魅せられたのか。

ここからが本題である。

まずアートの価値から考えてみよう。

ここでいう『価値』とは何らかの目的実現に役立つ性質や程度のことを指す。(しかし今の僕では『アート』を正確に定義することはできない。)

 

僕はアートに触れ、今まで経験した事のない感動を味わうことが出来た。

しかしその感動を言語化出来ていない時点で、非常に抽象的な感動といわざるを得ない。

そんな抽象的な感動を、目的として掲げられるものだとは、決していえないだろう。

したがって言葉の意味通りに考えると、アートには価値がない、という結論に至る。

 

仮にアートには価値があると結論付けられていたとすれば、その価値の向かう目的実現に対して、僕が何らかの魅力を感じていたからだろうと、仮説を立てることができる。

とはいえアートには価値がないという結論が出てしまった以上、別のアプローチをしなければならない。

 

では次に、何故ここにきて急にアートに興味を持ったのだろうか、考えてみたいと思う。

先程述べた通り、キッカケは『アナザースカイ』で間違いない。

かと言ってキッカケになりうる経験があの時が初めてであるはずはない。

 

僕はつい一年位前までは非常に合理主義的な考え方だった。

今となってはその考え方が原因で何度も苦しめられていたことを思い出す。

しかしあらゆる問題に触れ、理性では説明出来ないことがあまりにも多すぎることに気づいたのがつい最近のことだ。

この僕の内面で起こったコペルニクス的転回が、アートのようなものに対しての受け皿が出来上がった原因ではないかと思う。

おそらくそのタイミングで『アナザースカイ』を観ることになったのだろう。

 

ここで重要なのは僕の価値観の中で理性が絶対的な存在ではなくなったことだ。

というより理性の限界を感じたと言った方がいいだろう。

 

僕の興味は初めて理由を必要としなくなった。

ただ単純に鳥肌が立ったり、感動して涙が出そうになるような感覚を大事にしようと考えるようになった。

 

その感覚が味わえるのがアートだ。

この感覚は言語化が不可能であり、そこに魅力を感じる事ができる。

アート特有の魅力ではなく言語化できない感覚に対して、僕は魅せられたのだ。

 

この記事のテーマであった「何故アートに魅せられたのか」というのは「何故言語化できない感覚に魅せられたのか」に言い換えることができる。

しかし結論はまだ出せない。

ここまで考えてきたが、僕は結論を出すことがそこまで重要だとは考えていない。

重要なことはほとんどが過程の中にある。

つまり考えることこそが重要なのだ。

そもそも人間は死ぬまでの全てが過程でしかないのだから当たり前のことだ。

 

また結論に少しでも近づけたら同じテーマで記事を書いてみようと思う。

 

 

大学入試から考える大学の在り方

 


「センター試験」廃止を中央教育審議会が答申 - ねとらぼ

 

 この記事をキッカケに考えた、日本の大学入試に関して考えたことを、書いてみようと思う。

 

 

現在の大学の在り方が続くのであれば、センター試験廃止については賛成というか、当たり前だと思う。遅すぎるくらいだ。

何故なら大学側はセンター試験で高得点を取れるような生徒を望んでいるとは思えないからである。

 

僕は試験制度を疑問視する意見に関してはもう聞き飽きている。

現在の教育を改善しようとすると、議論が試験制度に及ぶことが多い。

もちろん、今の試験制度が適切だとは全く思わない。

何故適切ではないか、理由を挙げようとするとキリがない。

 

しかし僕は増えすぎた大学側が変わっていかなくてはならないと考えている。

 

海外の大学に詳しいわけではないが、少なくとも日本の大学は、極端なことを言うと『偏差値』という個性しかない。

細かい話をすれば「公立か私立か」「通えるかどうか」「行きたい学部があるかどうか」それくらいの個性はあるだろうが、その程度の個性はここでは問題外である。

大学側はダラダラと、入学して欲しい生徒像などを語っているが、結局は受験者の中から偏差値の高い人間を選ぶだけだ。

別に偏差値を批判しているわけではない。

もちろん、偏差値の高い生徒が欲しいという大学があっても、全く問題はない。

しかしここで問題なのが、偏差値という個性『しか』ないことだ。

現在、日本で最も偏差値の高い大学は東京大学だろう。

つまり現在の偏差値という個性しか備えていない大学の中ではトップが東京大学で、それ以外の大学は劣ることになる。 

企業側が欲しい人材は偏差値が高い人間ではないことは明らかだが、偏差値という個性しか備えていない大学の中から採用する事を考えると、高学歴な人間を採用するのは頷ける。

 

ここで話をこの記事の冒頭に戻す。

センター試験を廃止し、新たな試験制度を導入するということだ。

今のところはペーパーテストだけではなく、部活動の成績やプレゼンテーション能力や面接なども重視するという話である。

僕はこれでは今までとほとんど変わらないように思う。

偏差値という指標に部活動の成績や、プレゼンテーション能力、コミュニケーション能力といった新たな指標が加わるだけだ。

だから僕は大学側が変わっていかなくてはならないと考えている。

 

例えば、

コミュニケーション能力はないが読書が物凄く好きで、中でもSF小説に関しては誰よりも詳しい人。

勉強は全くできないが、パソコンオタクで、あっという間にどんなウェブサイトでも一人で創りあげてしまう人。

昆虫が好きすぎて、子供の頃から、他の勉強そっちのけで研究に没頭していた人。

僕は仮にこのような人たちがいたら、非常に魅力的に感じる。

しかし現在の試験制度でも、新しい試験制度でも、このような人たちは埋もれてしまうだろう。

何故なら今ある指標では評価できない能力を持っているからである。

 

ではどうすれば良いか。

理想的なイメージは、浮かんでいる。

それは大学側が多様性を持つことだ。

先程述べたとおり、偏差値で生徒を選ぶのも別に良いと思う。

しかし、人間性には問題があるが一つのことに没頭できる人や勉強は苦手だが魅力的な能力を持っている人を求める大学があっても良いと思う。

また得意分野に関わらず何か一つの分野で優れた能力を発揮できる人間を同じ大学に集めたら、どんな化学反応が起こるのか、想像しただけでもワクワクする。

 

 

最後に僕の考えを要約してみる。

別に試験制度なんていうものはどうでもいい。

大学側が個性ある理念を持ち、それに従って生徒を選ぶ。

そうすれば大学という環境は今までにない、化学反応が起こるかもしれない。

 

具体的な解決策を打ち出せないのは、僕の至らないところだ。

今後の課題でもある。

 

補足しておくが、もし仮にこの提案が実現したとすれば、大学職員の方々は物凄い苦労を強いられることは容易に想像がつく。

 ここで議論するべきなのは、大学側は変わらなければならない前提で、職員の方々が被る苦労をどう解消するかである。

「そんなことしたら、大学側の負担が増えるだけじゃないか」という批判が出ると思われるので、補足しておいた。

 

 

今回は大学側の生徒の選び方にスポットを当てた。

しかし僕が教育問題において、最も関心があるのは幼少期の教育だ。

そのうちにそういったテーマで考えて、記事を書いてみようと思う。

 

 

初ブログ

 

題名の通り初めてブログというものを書くことにした。

 

何故始めたのか、

特に理由はないが、強いて言えば、

自分の考えたこと感じたことをアウトプットする機会が欲しかったからだ。

 

 

とりあえず今回は自己紹介をしておく。

 

僕は21歳の大学三年生だ。

 

MARCHと言われる5つの大学のうちの何処かに通っている。(と言ってもほとんど授業には出席していないが…)

ちなみに理系だ。

しかし数学を専攻しているので、実験やレポートに追われる、一般的な理系大学生とは少し異なる。

つまりそこまで忙しく『大学生』をしているわけではない。

 

ここで使った『大学生』という名詞は、実験で研究室に缶詰になったり、数十枚のレポートに追われる典型的な理系大学生のことを指す。

決してまともに大学に行かず、サークルに明け暮れ、やたらと飲み会をし、常に異性を意識している、一般的に大学生を揶揄する場合に使われる『大学生』とは違う。

そもそも僕はそういう『大学生』的な環境には適応できない。

 

基本的に大勢で盛り上がるといったことが物凄く苦手だ。

簡単に言うと、コミュ力がない。

 

僕は感情が表に出にくい体質らしく、勘違いされることが多い。

よくあるのが、僕のコミュ力不足が災いし、相手に「嫌われてるのかな…」「避けられてるのかな…」と感じさせてしまう。

実際に何度か、勘違いさせてしまっていることが判明したことがある。

 

話が変わるが、趣味は読書や映画・音楽鑑賞だ。実にありきたり。

つい1年前にはフットサルと豪語していたが、いまや運動する体力も気力もない。

今までの文章の感じからして、フットサルというワードが出てきたのは意外に思うかもしれないが、小3〜高校卒業までは割りと真剣にサッカーに打ち込んでいた。

現在の趣味の話をしようとすると、長くなりそうなので、次回以降…。

 

ここで過去にサッカーをしていたことを書いて、思ったが、僕は僕自身の過去に関しては無関心であるように感じる。

過去、現在、未来を比べると僕の関心のベクトルは常に未来に向いている。というより未来が好きだ。

最近公開されていた映画で、『インターステラー』という作品がある。

僕はこの映画に魅了され、人生で初めて二度も映画館に足を運んだ。

何故ここまで魅了されたのか、考えてみると、やはり僕は未来が好きだからだと思う。

逆に戦争など、歴史的な出来事を題材にした作品は、あまり好まない。しかし伝記映画は好きだ。

ついさっき、趣味の話は次回以降にしようと書いたばかりにもかかわらず、映画の話をしているのは気にしないようにしよう。

 

この際なので、趣味の話を少しだけしておく。

 

読書と書いたが、読む本のジャンルは様々だ。

その中でも一番好きな本は森博嗣氏の作品だ。ドラマ「すべてがFになる」で話題にもなっているので、知っている方も多いだろう。

僕はドラマを全部観ているが、やはり小説で味わえる感動の足元にも及ばない。

そのうちに森博嗣氏の小説のみをフューチャーした記事を書くつもりだ。

 

音楽の好みはその時の気分に左右される。

今流行りのEDMが聴きたいときもあれば、クラシックを聴きたくなるときもある。

気分に関係なく好きなのがサカナクションだ。

サカナクションは去年の紅白にも出場し、今や非常にメジャーなアーティストだ。

しかし多くの人が、漠然といい曲だな、と思っている程度だろう。

僕からするとそういった人は勿体無いように思う。

初めてYoutubeサカナクションの動画を観たときの感動は今でも覚えている。一瞬で釘付けになり、近くにあったサンマルクカフェに入り、『エンドレス』に再生していた。

まずサカナクションのことを知らない方に見て頂きたいのは、ライブパフォーマンスだ。僕はそのライブ映像に感動し、鳥肌とともに泣きそうになってしまった。

人は本当に感動すると、喜怒哀楽に関わらず、涙を流してしまうのだろう。

加えて、サカナクションの楽曲は歌詞に注目して頂きたい。1回や2回歌詞を読んだだけでは、理解できない楽曲がほとんどだ。

僕はそういった、ハイコンテクストなものが好きな傾向にある。

 

 

ここまで、自己紹介といえるような文章ではなかった気がするが、今日はこの辺にしておこうと思う。

どういう記事を書けばこのブログを読んでくれる人が増えるだろう、なんていう疑問は僕にとっては無意味だ。

これから好き勝手に書いていこうと思う。